忍者の学問と文化の狭間
新しく「忍者一本」の生活が始まってから1ヶ月が経ちました。
今まで以上に忍者についてどっぷりと考え、学び、アウトプットする機会が増えたので、また色々と混乱を来たしてきております(笑)
いやぁ、忍者ってほんと深いです。
やはり自分は文章に書いてみないと脳内が整理できないらしく、ごちゃごちゃになってる現状を少し整理したいと思います。
忍者研究の性質
大学院で忍者研究の入口に立ちました。
研究テーマは大枠考えてはいるものの、調べ物をする度に新たな気づきがあり、あれもこれもやりたくなってきます。
「人文学はどれだけ沢山の知識を知ってるかでしかない」と先生のお言葉どおり、まさにその通りだと感じますね。
まだ結論出せるほどの素養がないので今はとにかくインプットを増やしていくしかありませんが、次々と知的好奇心が満たされていくことが快感でしかありません。
さて、研究というのはとても論理的な作業であり、前提から事実を積み上げて一つの結論を導き出すものです。
特に歴史学においては資料の存否とそこに書かれている内容に大変左右され、「資料がなければその事実があったことを証明できない」性質のものであります。
幸い忍者に関わる資料はなさそうで結構ありますし、これからも資料が発見される可能性も高い分野だと思いますので、この分野は学問の視点でいうと凄く興味深い分野だと信じています。
それゆえに、忍者・忍術の研究がめちゃめちゃできる人になって、新しい事実を発見してゆきたいですし、自分が大好きな忍者を突き詰めていくためには、この学問をしっかり果たして行かねばならない使命感すら勝手に感じています。(とってもおこがましいですね笑)
ただなんか引っかかっているのは、この文献調査による研究活動のみによって、忍者というものが全てわかるのかということです。
忍者はその術の多くを家伝として同じ一族にのみ伝えてゆき、書類に起こしているかどうかはその家次第です。
甲賀の渡辺さんのように家の人から教えられていないけど実は文書類として残っていた例もあれば、川上先生のように実際の口伝と文書類を両方伝えられた例もあります。
もしかしたらご本人は知らないけど実は文書が残っていて蔵から今後見つかる忍者の子孫の方もいれば、本当は自身でも認識しているが昔からの言い伝えを守り公開を一切しない忍者の子孫の方もいらっしゃるかもしれません。
さらにいうと、文書類はないのだけれど口伝のみで伝えられている忍者の子孫もいるかもしれませんし、何も伝えられていないけど実は忍者の子孫でありその血ゆえに忍者っぽい生き方をしてる人もいるかもしれません。
整理すると、パターンとしては
① 伝書も口伝ある忍者
② 伝書はあるが口伝のない忍者
③ 口伝はあるが伝書はない忍者
④ 口伝も伝書もないが忍術を継承していた人の血を引いてる者(途中で失伝)
の4つがあるのではないかと思っています。
※①〜③については他の家に継ぐこともあったので血縁関係があるかどうかは関係ない
そして上述した歴史学の性質からすると、論文を書くという観点では研究対象になり得るのはおそらく①と②の伝書があるパターンのみなんですよね。
③と④については、歴史学というアプローチでは真実として辿り着くことができないわけなのです。
そして忍者の役割の性質としても③と④のケース(おそらくほぼ④)が大半を占めているような気がしてなりません。
本当に忍者の全てを追求したい場合は、忍者を学問として研究をするにあたってある程度このような性質であることを意識しないととても狭くなってしまうような気がしてしまい、勿論③④に食い込んでいけるくらいの最大限の努力をしつつですが、そこだけに偏重しないように気をつけないといけないのかな、と思っています。
忍者の想像と功績
ただ結局③④はそもそも何も残ってなかったり、本当なのか嘘なのかもはっきりしません。
これらにはどうやって向き合っていったらいいのでしょう。
学問の世界からは切り捨てられるものですし、嘘をでっちあげて、さも①②から派生したように世の中に浸透しているものもあるでしょう。
でも世の中に浸透しているということは、それは世間の人が求めていたものを提供できていたということであり、そこに忍者というコンテンツを利用したのは、その存在にミステリアスで人を惹きつける忍者特有の魅力があって、ニーズとコンテンツがうまく融合したからこそ。
歴史上の空白を想像してそれを忍者の活躍としたり、各時代の人々が元気や勇気や快楽を得るための物語を作るにあたって忍者自体を変化させていったりすることは、決して非難されることでもなく、むしろ大変価値があることと信じています。
ましてや現代の多様性の時代においては、ニーズも細分化されており、あらゆる物やサービスが溢れていて、何か一つの正解を作ることは難しくなってきていますよね。
日本忍者協議会の過去の調査では、忍者の認知率は世界で96%です。
でも各国の忍者の捉え方は人それぞれで、アサシン的に捉える人もいれば、NARUTOの事を指す人もいます。
「忍者って歴史的にこうだからこれ以外は忍者とは違うよ」って言うのは簡単ですが、それでは環境も思想感も何もかも違う現代では受け入れられず、文化としては衰退していってしまうことでしょう。
人の数だけその人が思う忍者がある。
それが入口になって忍者に興味を持ち、みんなして「忍者って本当はなんだったのかな?」って考えるきっかけになればいいんだと思います。
あのレジェンド忍の川上先生も最初は忍術を習ってるとは知らなくて、映画「忍びの者」を見たときに初めて「今習ってるのは忍術なのか?」と感づかれたそうで、そこから忍者の研究も始められたそうです。
真田忍者の末裔である伊与久さんもおばあ様から習った身体の動きが忍者のものであると気づいたのは、かなり後になってからとのことでした。
つまり、全く意識せずに自分が聞いたり体験したりしてきたことがもしかしたら忍者と関わりあるかもしれない可能性を秘めており、それを呼び覚ますツールは「文化創造」と「研究成果」なのではないかと思うのです。
アプローチの難しい③④の人たちを少しでも発掘するために、いかに忍者を活用した文化を発展させて、忍者に深く興味を持ってもらうかが重要ということになりますかね。
そこから実はあの時の話は忍者に関することだったのかも、私は忍者だったかもしれない、などと気づき、今後の発展が見えてくることでしょう。
そのためにはさまざまな形で忍者に興味を持ってもらうと同時に、本来の忍者の本質をできる限り浸透させていくことが求められていくと思います。
研究と文化の相乗効果を目指したい
そしてこれは①や②で今も秘密を隠している人達にも影響を及ぼすことがあるでしょう。
そういう人達は、ご先祖様が忍者だったことに対しての劣等感を持っていらっしゃることが多いのだそうです。
大半の認識が「忍者=泥棒・暗殺者」とかではそりゃ出て行きづらいのは当然のこと。
身分による差別や現代から見た道徳観からそのような認識になってしまっているのだと思いますが、別に武士だって人殺ししてるじゃないかと。
忍者がどれだけ大変で苦しくてとても意義のあることをしていたか、そしてそれが世の中にどんな功績を残したのか、もっとそこがわかるようになると誇りを持てるようになるとも思うんです。
誇りさえ持てれば、隠していてそのまま失われていく忍者の真実に触れられるきっかけが出てくるかもしれません。
そういった意味で、やはりこれからも忍者の本質を捉えていくためには、研究と文化のバランスと往還が非常に重要なんだろうな、と書いてて思いました。
1.まだ白地のある現存忍術書などから研究する
2.研究成果を発表して世に広く広める
3.研究成果と時代に応じたニーズの掛け合わせで文化としての新たな忍者像が生まれ、人を熱狂させる
4.日本人にとって忍者が誇れるものになる
5.実は忍者だった人が現れたり、古文書が見つかったりする
6.さらに研究が進み1.に戻る
こんな循環が生まれてくるといいですね。
自分個人としては、学問研究を三重大学で、文化創造と発展の仕組みづくりを忍者協議会で、それぞれ取り組んでいき、上記の循環を目指していきたいと思います。
どちらも当面は修行だと思っていますので、そんなに即効性はありませんが、真摯にじっくりやっていきたいです。
と...書いてみて脳内ぐちゃぐちゃだったことが整理されてすっきりしました!
いろいろ間違ってることもあると思いますし、もしかしたら違う視点やもっと大局的な視点があるかもしれないので、「いやいや、こうなんじゃね?」とかあればぜひ教えてください!